令和4年度ブロック別町内会活動研究大会の報告

 
 

大会テーマ 「安心・安全に暮らし続けるための地域の絆づくり」

 
 

 

 

 令和4年度ブロック別町内会活動研究大会が、去る10月18日札幌市において、オンラインと会場参加の併用開催として、道内各地より300名を超える視聴を得て開催されました。
 大会は、実践報告、講演の内容で行われましたので、概要をご紹介します。

 

実践報告会

 

 

テーマ①:防災さんぽ~家族単位で災害時の確認~
報告者:恵庭市北柏木町内会会長の玉熊隆昭さん(左)と副会長・防災部長の梶浦孔明さん(右)

 

 コロナ禍の中、家族単位で気軽に参加できる「防災さんぽ」の様子を報告いただき、家族での防災会議により災害時の経路や役割確認を推進するとともに、今後に向けたアンケート結果を報告いただきました。

 

 

 

テーマ②:子育て世代が町内会を立ち上げ~自分たちでつくるまちづくり~
報告者:東区東かりきひかりの町内会会長 川北 光晴 さん

 

 地域のコミュニティが存在しない中、ごみステーションの設置や災害時の支え合いのため、若い子育て世代の住民が協力して立ち上げた町内会設立までの経緯、その後の町内会活動として、除雪をきっかけに実施したアンケート、メールで会員登録してもらう電子回覧板導入などについて報告いただきました。

 

講演の概要

テーマ:災害に対する地域での備え~未来への備えにつなげる~

講師:命を守る大切さを語りつなぐ代表者・北海道防災アドバイザー

   三浦 浩 さん

 

 

◆はじめに

 

 本日は、僕が29年前の1993年7月12日に奥尻島で体験した「北海道南西沖地震」についてお話します。僕は、北海道の奥尻島で18年間消防士をしていました。6年前に栗山町に引っ越し、知的障害者施設で5年間勤務しながら、防災教育アドバイザーとして全道各地で津波の教訓から得たものを物語として語ることで、子供たちや参加者に命を守る大切さを伝えてきました。

 

◆津波の教訓を全国に伝わるように伝える理由

 

 僕は地震と津波でもう一歩後ろだったら命がなかっただろうという経験をしました。人はいつ死ぬかわかりません。突然心臓が止まって亡くなることだってあります。僕は一歩踏み出せないでいました。命は今あっても次の瞬間わからない。人生は一度きりと思った時、僕は消防士ではないと決心しました。消防士の18年間の経験は今に繋がっていますが、自分の経験したことを、全国に伝えることによって一つでも守れる命があるのならと決心しました。自分が体験した絵本「あの坂へいそげ」を車に積んで今年の4月6日から全国を回っています。この車は26万キロ走っています。

 

▲消防士時代の語り部の様子

 

▲三浦さんと全国を回る相棒の車

 

◆1983年日本海中部地震

 

 39年前の1983年5月26日に「日本海中部地震」がありました。秋田県男鹿市の加茂青砂海岸というところです。その日、山にある小学校の4、5年生が社会科見学で海岸に来ていました。ちょうど12時の弁当の時間でした。地震の7分後に津波が押し寄せて、ここで小学生13名が亡くなりました。この地震による津波で、北海道の奥尻島で蛸取りをしていた二人の漁師が亡くなっています。一人は行方不明のままで、もう一人の漁師は船のロープを体にきっちりと結んでいて、船と一緒に発見されました。この地震をきっかけに、僕の爺ちゃんも漁師だったんですけども、爺ちゃんは僕にこう言い聞かせてくれてました。「いいか~、ひろし。よく聞いておけよ~。地震があったら、津波が来るから、あの灯台めざして駆け上がりなさい。」と。何回も繰り返し教えてくれました。当時、5歳だった僕は、初めの頃は素直にその話を聞いていましたが、小学・中学と成長にしたがって、事あるごとに聞かされる爺ちゃんの言葉に、また同じ話かと思いながら聞いていました。

 

◆1993年北海道南西沖地震

 

 今から29年前、奥尻島の北海道南西沖地震は夜の10時17分に発生しました。僕は奥尻島の一番南の青苗というところに住んでいました。津波は地震の数分後に襲ってきました。この津波で家が流され、残った家は爆発しながら燃え広がり、火災で黒い煙に包まれました。僕が目印とした灯台も、地震の揺れで倒れました。その時の体験を僕は絵本と紙芝居にして伝えています

。紙芝居という言葉は、津波と同様に世界共通語です。タイトルは「あの坂へいそげ」。紙芝居は絵本にもなっています。今でもあるこの坂へつながる道が、自分の命を守ってくれました。僕の父は心筋梗塞のために42歳で亡くなり、母は青森の人なので、僕の3歳下の弟と生まれたばかりの妹を連れて、青森に帰ったんですけども、僕は奥尻島に残りこの経験ができました。

 

▲奥尻島の南にある青苗岬

 

▲三浦さん作「あの坂へいそげ」

 

◆「あの坂へいそげ」紙芝居のはじまりはじまり

 

 これは、僕が15歳で高校1年生の時の地震と津波のお話です。地震が発生したのは1993年7月12日午後10時17分。僕は高校1年生で祖父母と3人で暮らしていました。漁業と農業、そして観光の島、奥尻島の一番南の青苗にある木造2階建ての家に住んでいました。僕は2階で宿題をしている最中でした。暑かったんでトランクス1枚でした。その日の夜、カラスが泣くんです。何かいつもと違う鳴き声です。夜の10時17分、突然ドドーンという大きな地鳴りがしてすぐに停電になりました。1階から「ひろし地震だ!!大丈夫かー!」って婆ちゃんの大声が聞こえてきました。1階に降りると、爺ちゃんが2つの大きなタンスの下敷きになっていました。「爺ちゃん生きてるかー!」って、「生きてるー動けねー」って声が返ってきたんです。僕は火事場の馬鹿力でその大きなタンスをよけました。玄関の戸が開かなくて、いつもは開かない居間の窓が開きそこから婆ちゃん、爺ちゃんを引きずり出しました。2つ掛けてあった懐中電灯は一つは点かず、もう一つは点きました。今思えば、あの明かりがあったからこそ避難できたんだと思います。僕はトランクス1枚、裸足で外に出ようとしたら、もう沖からゴーって音が聞こえていました。僕はすぐに津波だと、爺ちゃんが僕に何回も繰り返し言い聞かせてくれたことが頭をよぎりました。僕は、爺ちゃんを背負い、婆ちゃんの手を引きながら、懐中電灯を握りしめ、灯台がある坂を目指しました。灯台は折れ曲がり、灯りが消えていました。坂を駆け上がる時には波しぶきを感じるほど、すぐ後ろまで津波が迫っていましたが、ここで死んでたまるかって、絶対に諦めてたまるかって気持ちで、僕は寸前のところで灯台のある高台へ到着し、助かることができたんです。電柱も根こそぎ流され、人も車もどろどろの波です。波しぶきって白いものを思い出しますが泥が移動しているような感じです。津波は、陸地では1秒間に約10メートル進むと言われています。だから、津波が見えてからでは遅いんです。奥尻島での犠牲者は198名。ほとんどが津波によって命を奪われてしまいました。

 

▲爺ちゃんはタンスの下敷きに

 

▲爺ちゃんを背負い、婆ちゃんと


 僕は、あの時、なぜ自分の命が助かったのかと考えました。普段から爺ちゃんが僕に、「いいか~ひろし。」って教えてくれていたから、そして近くに懐中電灯を置いていたのが助かることに繋がったんだと思うのです。お爺ちゃんお婆ちゃんはひろしくんのことを命の恩人と言いました。それは違う。僕は、本当の命の恩人はお爺ちゃんだよって伝えました。だから、何回も何回もくどいほど語り繋ぐことは、命を守ることに繋がっていくんだと、僕は身をもって学びました。紙芝居はここでおしまいです。

 

▲僕はどうして助かったのか

 

▲あの坂へいそげ

 

◆防災は小さなことの繰り返しの積み重ね

 

 爺ちゃんの教えと懐中電灯を置いていたことは、大それたことではなく、小さなことです。それで、僕は助かったんだなと思うのです。防災って小さなことの繰り返しの積み重ねなんです。普段がどれだけ大事かってことです。防災あってこその生活です。子供たちは楽しくなければついてきません。僕は、子供たちが楽しく学べるような防災が教科に入らなければならないと思っています。

 

◆避難時の心得 ももよさま(百代様)

 

 100歳まで元気に皆さんで生きていきましょうという願いもこめているんですけども、百代様と5つの約束、これを全国に今広めております。百代様。最初は「も」たない。何も持たないこと、持っても必要最小限です。僕は懐中電灯を持ちました。でも持って欲しいものがあります。それは余裕です。2つ目は「も」どらないです。いったん避難のために家を出たら決して戻らないことです。次に「よ」らないです。避難中にどこかに寄らないことです。続いて、「さ」がさないです。物を探さないのです。探していたら時間を食います。最後に、「ま」たないです。情報や人を待たないことです。最初は自分の判断で安全な地点まで行く。そして本当に安全と分かったら、ラジオとかを使って情報を入手するという順番です。頭文字を取って「も・も・よ・さ・ま」と覚えてください。

 

◆田畑ヨシさんの紙芝居

 

▲田畑さん作紙芝居「つなみ」

 岩手県田老地区に田畑ヨシさんという方がいます。ヨシさんは8歳の時1933年3月の昭和三陸大津波を経験しました。ヨシさんはその時の経験を海岸沿いに住むお孫さんに伝えるために「つなみ」という紙芝居を作りました。40年近く語っていたそうです。おばあちゃんのつなみという紙芝居を見たから、避難できたよっていう方々からたくさん連絡をもらったそうです。僕は田畑さんのもとへお話を聞かせてもらいに行き、自分の実体験そのままを紙芝居にしなさいってすすめられました。そして、1年半かけて作ったのが、先ほど紹介した「あの坂へいそげ」でした。
 お婆ちゃん8歳の時の昭和三陸大津波。やっぱり言い聞かせ語り継ぐことって命守るんだなっていうことを、僕はこのお婆ちゃんにも教えていただきました。

 

◆北海道南西沖地震を体験して学んだこと3つ

 

 1つ目は、最後の最後は、自分でしか命を守れないということです。僕は、爺ちゃんの教えによって漠然と避難のルートを決めていたことで、命を守れたんだなって思います。2つ目は、地震、津波、全てが一時的でいつまでも続かないということです。栗山町にも雪が降るんですが、雪がもし悩みだったとしたら、その雪も時間が経ったら消えてなくなってしまうんです。信号だって、停電になっていなければ、信号が青信号に変わる時が必ず来るんです。僕は、このことを地震津波から学びました。そして、3つ目は、小さなことのありがたみがわかりました。こうやって、自分の命があること、米一粒一粒のありがたみ、水一滴一滴のありがたみ、重力があってここに自分が立っていること、声が出て皆さんにこうやって伝えられていること。僕は、こうしたありがたみを地震津波から学びました。

 

◆普段何もない時に準備してほしいもの3つ

 

 皆さんに用意してもらいたいものを3つ紹介します。1つ目は、どこに避難するか頭の中で決めておくことです。2つ目は、すぐに出せるところに救命胴衣を用意しておくことです。救命胴衣には笛が付いていますか。助けてーって言わなくても笛を吹けばいいんです。中にボールが入っていないタイプです。ボールが入っていると水に濡れると鳴らなくなります。そして、3つ目は、もし車ごと流された時に、車から脱出するアイテムです。先が窓を割るタイプになっているハンマーで、鉄でできています。車のドアの角を狙うんです。ガラスが飛散してこないように上の角ではなく、下の角を狙います。これを車のすぐに出せるところに用意しておくことです。僕はこのほかに金槌を車の下のすぐに出せるところに用意しています。

 

◆最後に

 

 東日本大震災により、福島県では津波で直接亡くなった方が1,605名。その後、家に帰れないストレス、持病の悪化、家族を亡くした悲壮感などで亡くなった方がそれ以上の2,333名います。今はもっと増えていると思います。こんな事実も紹介させていただきました。僕にとって、地震津波はとても憎いです。同時に、教えてもらっていることもたくさんあります。僕は、本日、皆さんにこうしてお会いできたことにありがとうという気持ちでいっぱいです。

 

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