令和5年度全国自治会連合会北海道札幌大会が、10月18日、札幌市かでる2.7において全国各地から約500名の参加を得て、開催されました。札幌での開催は15年ぶりとなり、式典、記念講演、活動発表、交歓会の内容で行われました。大会の様子はオンラインで同時配信され、約100組織の皆さんに視聴いただきました。
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歓迎の挨拶をいただいた 北海道濱坂副知事 |
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祝辞をいただいた 総務省三橋審議官 |
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第1部 式典 |
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式典では、三原忠実行委員会副委員長(北海道町内会連合会副会長)が開会のことばを述べ、長谷川敬二全国自治会連合会会長(北海道町内会連合会会長・実行委員会委員長)から主催挨拶、開催地を代表して濱坂真一北海道副知事から歓迎の挨拶をいただきました。その後、内閣総理大臣メッセージ披露、三橋一彦総務省自治行政局官房審議官、鈴木貴子自由民主党副幹事長から祝辞をいただきました。その後、大会宣言が採択され、全国自治会連合会長谷川会長から町内会活動の功労者99名に表彰状が授与されました。あわせて、秋と春の叙勲受章者7名をご紹介して花束を贈りました。さらに、次期開催地の福井県自治会連合会奥村清治会長からのご挨拶、閉会のことばで第1部が終了しました。
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開会宣言をする 三原実行委員会副委員長 |
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主催挨拶をする 全国自治会連合会 長谷川会長 (実行委員会委員長) |
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第2部 記念講演
テーマ:あなたとつながる北海道・札幌
講 師:和田 哲氏(街歩き研究家) |
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◆路面電車が大好きだった少年は電車が大好きな大人に |
私は札幌の路面電車が走る電車通りで育ちました。家の前を走る電車がとても大好きな子供でした。昭和52年に札幌市営交通50周年というイベントがあり、大正時代の木造電車が街を走りました。それを毎日見送っていると、運転手さんが私の家の前で止まってくれるようになったんです。最後の日に電車の絵を描いて運転手さんに渡したのを覚えています。それから40数年が経ち、私は電車が大好きな大人になりました。
北海道は全国の中でも、ひと味違う歴史を持っています。ご注目いただきたいのが北海道の地名です。北海道には昔、アイヌの方々が暮らしていましたので、北海道の地名のほとんどはアイヌ語が由来なんです。例えば、アイヌ語で「サッ・ポロ・ペッ」、乾いた大きな川。この言葉が「札幌」という町の名前になりました。それから、「オタ・ウシ・ナイ」石狩川の砂浜に流れ込む川という言葉があるんですけれども、意味を翻訳して、下流は「砂川」という町になりました。一方、上流では翻訳ではなくて音に当て字をして、「歌志内」という町になりました。このあたりは何となく分かりますけれども、アイヌ語に当て字をした「オ・ペレ・ペレケ・プ」が「帯広」になったんです。明治の方々の言葉の感覚、漢字の知識、すごいなと感心させられます。
そんな中で新千歳空港の南にフェリーが発着する大きな港町があります。「苫小牧・とまこまい」と言います。この漢字表記ちょっと不思議だと思いませんか? 3文字目「牧場の牧」と書きます。これはマキとは読みますが、マイとは本来読まないんですよ。もちろん、これも元はアイヌ語です。「ト・マク・オマ・ナイ」。沼の背後を流れる川という意味の言葉です。開拓使時代、漢字の当て字を統一しようと、漢字3文字に決まりました。苫小枚なんです。3文字目木へんなんです。、これなら「マイ」と読みます。こうなれば何の問題もなかったんですけれども、これを書類にして報告した開拓使の役人が、小牧昌業という人だったんです。何か嫌な予感がしてきました。そうなんです。つい自分の名前の牛へんを書いてしまったんです。今なら、電話なりメールなりして、訂正するということができると思うんですけれども、当時は書類が上に上がってしまったら、もうどうすることもできなかったんです。ということで、苫小牧はあの誤字のまま現代に引き継がれています。
北海道は、全国の様々な人の縁でできていると言っても過言ではありません。その街づくりやインフラ整備を一気に明治時代に本格化させるんですけれども、最初は苦労が絶えませんでした。明治2年1869年、札幌のまちづくりが始まった頃、明治新政府は出来たばかりで不安定でした。戊辰戦争もあり、財政難に陥ります。ロシアの攻撃から守るためにも何としても北海道開拓、特に函館と札幌を結ぶ陸路をつくらなければいけない。そんな中、当時の政府首脳・岩倉具視さんは「無償で道路を建設してくれる人たちはいないだろうか。」と考えました。いました。京都の東本願寺というお寺です。徳川家に恩があるお寺だったので、新政府から睨まれていたんです。新政府軍から焼き討ちにされるという話もあり、慌ててお寺のトップの「嚴如上人」という方は、新政府に「私たちは新政府に反抗するつもりは毛頭ありません。それどころか、私たちにできることがあれば何でもお手伝いします」と念書を出していました。岩倉さんはそれを思い出しました。明治3年、東本願寺は札幌から函館に向かう道路の一部の建設を引き受けることになってしまいました。名付けて『本願寺道路』、これが現在の国道230号の始まりなんです。
実際に北海道にやってきた一団の責任者は、嚴如上人のお子さんで「現如上人」という方です。一行は京都を出発しました。その道々歌を歌いながら、資金と人を集めて札幌にやってきたんです。「ととさん、かかさん、ゆかしゃんせ。うまい肴もたんとある。おいしい酒もたんとある。えぞえぞえぞえぞ。ええじゃないか」と今で言うコマーシャルソングみたいなものをみんなで歌いながら、歩いてきたんです。当時、北海道蝦夷地なんてどんなところかわからないのに、仏様のお導きだからとお金も人も集まるんです。当時の人々の信仰の力は集まると大きかったんです。だからこそ、新政府は警戒したのかと思います。こうして彼らは札幌に着いて、道づくりに取りかかるんですが、道路づくりといっても今のように舗装道路をつくるわけではありません。人が歩くだけの山の登山道のような道をつくるわけですから、笹を横たえたり、大きな木を切ったりする程度なので、工事は大変早く済むんですが、アイヌの人たちもこの道づくりに駆り出されました。こうして工事開始から1年3か月で本願寺道路が完成するわけなんですが、開拓使顧問のお雇い外国人ホーレス・ケプロンさんが「馬車が通行できないような道路は産業には使えない。」と早速ダメ出しされてしまうんです。お寺としては立場がありません。本願寺道路ができたばかりですが、馬車が通行できる平地の道ということで「札幌本道」現在の国道36号線がつくられ、本願寺道路は早くも衰退してしまいます。
その後、本願寺道路は建築に必要な札幌軟石などの輸送、定山渓温泉へのアクセス路として見直されます。今、札幌から少し離れたところに、この旧本願寺街道・国道230号の中山峠という峠があります。ここには2つの休憩施設があります。札幌側から向かって左が「道の駅望羊中山」、そして右側が昔からある「峠の茶屋」です。。その中山峠には、この現如上人の銅像があり、道行く人々の安全を今も見守ってくれています。
皆さん、大通公園のテレビ塔はご覧になりましたか。今、有形文化財に登録しようとしております。大通公園の端にあるこのテレビ塔、札幌を代表する風景なんですが、日本全国にはこれとよく似た風景があります。名古屋にも実は大通公園とテレビ塔があるんです。しかもテレビ塔、よく似ているんです。それもそのはずで、どちらも内藤多仲という人が設計したんです。当時は塔の設計というのは、もうこの人以外にできなかったんです。コンピューターがない時代に手の計算で塔の設計をしていました。内藤多仲さんが設計した塔は、全国に6つありタワー6兄弟と呼ばれています。①名古屋テレビ塔、②大阪の通天閣、③別府タワー、そして4男坊の札幌テレビ塔、その弟が⑤東京タワー、⑥博多ポートタワーです。全部同じ人が作ったんです。札幌テレビ塔は昭和30年代の初めにテレビ放送と開始と同時に建設されました。昭和32年に開業するんですけれども、今の名古屋テレビ塔と同じく銀色だったんです。その後、札幌テレビ塔は赤く塗られました。札幌には名古屋にはない二つの事情があったんです。一つは、当時は暖房に石炭を使っていましたから、煤煙がひどかったんです。白い壁の建物は、春になる頃には薄黒くなっていたんです。ですから、銀色の札幌テレビ塔は春になると、煤煙の汚れが美観を損ねると市民から声が上がりました。もう一つ、航空業界から吹雪になると塔が見えない、危険だという声が上がりました。これが無視できない問題だったんです。それで札幌テレビ塔は昭和38年に赤く塗られることになりました。でも、赤いのは札幌テレビ塔だけじゃないですよね。東京タワーも赤いんです。これは、昭和35年に改正された航空法で、高さ60メートルを超える鉄塔は紅白に塗装しなければならないと決められました。東京タワーこれより少し早くできたんですけれども、もうこの法律改正を見越して赤白に高い部分を塗り分けたんです。でもこの理屈でいうと、札幌テレビ塔や名古屋のテレビ塔もこれに当然該当するんですけれども、既に完成している建造物は塗装する必要がなかったそうです。でも今、この法律が変わりました。高光度航空障害灯、いわゆるあの点滅する赤いランプ。あれが点いていれば紅白に塗らなくてもいいことになったんです。ですから、近年完成した東京スカイツリーは白いですよね。となると、札幌テレビ塔も実は赤いままである必要はないんです。
テレビ塔がそっくりな名古屋ですけれども、札幌と名古屋の間には電車を巡っても不思議な縁がありました。明治の終わり、札幌には馬車鉄道が走っていました。町の中に札幌軟石やお客さんを運んでいたんですけれども、大正時代になると、馬車鉄道は時代遅れになってきます。1918年・大正7年に北海道では一大イベント北海道50周年記念博覧会が開催されました。これを機に馬鉄を電車にしようという話になったんです。札幌は全国的にも新しい街で、街並みの風景はヨーロッパっぽいところがあるので、イギリスから最新の電車を輸入して走らせようということになったんです。ところが、北海道の歴史にはこの「ところが」が非常に多いんですけれども、このタイミングで第一次世界大戦が始まってしまい、電車を船で運ぶことができなくなってしまったんです。札幌では、線路があるのに車両がないと悩みました。そこに「車両ならありますよ。」と手を挙げてくれたのが、今の名鉄・名古屋鉄道の前身、名古屋電気鉄道だったんです。名古屋電気鉄道では、明治時代に作られた電車24両を廃車にするところで、これを札幌に譲りますと言ってくれたんです。運転台の前に窓ガラスがないんです。名古屋は暑いからいいですけれども、北海道で走らせたら、運転手さんが雪だるまになってしまいます。「さあ、困った」と言ってると、名古屋では「私たちは新しい電車の改造工事中だから、一緒に改造しますよ」と言ってくれたんです。名古屋のおかげで札幌でも運転台の前にガラスが付いた路面電車が開業しました。名古屋から電車を受け取っておよそ50年が経った頃、札幌市電は全盛期を迎えていて、電停で待つお客さんを1両では乗せきれなく、2両連結の電車も走り始めました。昔の札幌市電はデザインにこだわっていて、昭和40年代のデザインですけれども、北欧の路面電車を思わせるような、全国の中でもとても先進的なデザインでした。こんな先進的な2両連結の電車が走ったんですが、それでも路面電車では限界を迎えていました。人口も100万人を超えました。そこで路面電車に代わって地下鉄が開通して、路面電車は大幅に縮小されてしまいます。昭和50年頃、名古屋の名鉄では、どこかに2両連結の車両が余っていないかと大型の路面電車の車両を探していました。そこで「連結車ならありますよ。」と手を挙げたのが札幌市電です。58年前のお礼です。こうして昭和51年、札幌を走っていたこの北欧風の2両連結の車両が名鉄に移送されました。そして名鉄では、札幌時代のこの緑色から名鉄の真っ赤な色に塗り替えられて元気に走った訳です。札幌時代には上の小さな窓しか開かなかった電車は窓が大きく開けられるように改造して、のちには冷房も取り付けられ、2005年まで走り続けました。この名鉄の美濃町線が廃止され、札幌生まれのこの電車は廃車、解体されることになりました。完全にスクラップになる寸前、地元の鉄道ファンたちが待ったをかけて、頭の部分・運転台の部分だけが残っていた電車を買い取ってくれたんです。こうして地元の有志のおかげで旧美濃駅に保存されたんですけれども、10年15年経つとだんだん傷んできます。 岐阜県旧美濃駅で蘇った緑色の札幌市電2020年には、補修しなければならなくなり、前の塗装を剥がしてみると、札幌時代の緑色の塗膜が見つかり、この電車を札幌時代の色に塗り替えてくれたんです。「北24条から静修学園前」と書かれた行き先表示を見て涙が出そうになりました。札幌を走っていた北欧風の電車が遠く離れた岐阜で蘇ってくれたことを本当に嬉しく思いました。この電車が保存されているのは、名古屋鉄道の旧美濃駅です。この札幌市電と名古屋鉄道の友情はあまり知られていないんですけれども、長く語り継いでいきたいと思っています。
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第3部 活動発表 |
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活動発表①
「デジタルとアナログを合わせた町内会活動~コロナ禍で絆を育むために」苫小牧市拓勇東町内会副会長 佐藤 一美さん |
拓勇東町内会(約3500世帯)は、30代の若い世代が多い新興住宅地の町内会。コロナ禍で今がチャンスとデジタル化を推し進め、子供や孫、高校生役員の協力を得ながらシニア世代のデジタルへの壁を取り払いました。ズーム会議、iPad導入、会館にWiFi整備、ペーパーレス化も進み、SNSで町内会加入のメリットを発信、町内会報もLINEでダウンロード可能に。アナログでの温かいコミュニケーションを大切にするためにデジタルを活用し、共に学び、成長する場にしていきたいと願っています。
活動発表②
「コロナ禍で実践した町内会の防災活動~防災風呂敷の製作」札幌市西区琴似2条中央町内会総務部長 原 みちるさん |
琴似2条中央町内会(230世帯)は、飲食店や商業施設、マンションも多い町内会。2018年9月の胆振東部地震(ブラックアウト)を教訓に、防災勉強会をスタート。日本風呂敷文化協会の協力を得て、90×90㎝の防災風呂敷を製作して会員へ配付。風呂敷は防水加工され、避難所を中心に給水所など地域の協力箇所が記入され、縁周りには結び方や使い方が描かれています。防災風呂敷は講習会などで防災意識を高める方法として、活用いただきたいと思います。
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第4部 交歓会 |
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交歓会は、江差町出身の木村香澄さんの「切り声ソーラン」でスタート。各テーブルでは話が弾み、賑やかな雰囲気の中、親睦を深め合いました。
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